開けきれない箱

メンサな暇人が様々な物事に関しての意見・考察を書きます。

作品の完成度と要素の多さは基本的に反比例する

この文章で言いたいことは、完成度の高い作品を作る手っ取り早い方法は、なるべく作品に関係する要素を少なくするということだ。

 

簡単な例でいくと、手を使って真っ白なキャンパスを真っ黒に塗りつぶすのと黒で格子状に線を引くのだったら、前者の方が圧倒的に完成度を上げることが容易である。

 

もちろん、前者にもにも色のムラなどの完成度を下げる要素があるが、後者の直線を引く難しさやもちろん色のムラなど完成度を下げる要素は前者よりも多い。

 

ヨルシカの楽曲を制作しているn-bunaもなにかのインタビューで同じようなことを言っていた。

事実彼はメディアにほとんど顔を出さず、なるべく自分の作品から自分の影をなくすようにしている。

 

このことは多くのことに当てはまるように思える。

Apple製品はデザインがシンプルであり、ネットで活躍する歌い手たちの中には顔を出さない人が多く、それによって作品そのものの完成度が高まっている。

 

また、要素が少ないことは私たちにとっても理解がしやすいという面で好都合だ。

MVの情報量が多すぎると歌詞の内容を同時に理解しにくい。

 

っとまあ、オッカムの剃刀的な文章ではあるが久しぶりに書いてみた。ではでは

意味なしジョークと暇つぶし

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 意味なしジョークと暇つぶし、どちらも高級とされるものだ。

無意味だと思えることをできるなんて素晴らしく、それこそが豊かさを示す。

その様に考えると犬や猫などの動物達は人間と共生することによって、随分と豊かになったものだ。

今日、人と戯れる犬は珍しくない。

それ以外の動物の多くは生きるのに必死な様に思える。

それでも動物の死骸をあまり見かけないのは、色々な意味での整理と掃除が行き届いているからである。

生きるのに必死になれない僕達は、ゲームをしたり映画を見たりするのに必死だ。

この世の中から娯楽と呼べるものがなくなったら、多くの人が死んでしまうのだろう。

やる事がなくて一時的に人は増えるかもしれないが、、、

無意味とされる行動も、人間においての生きるという言葉の中に含まれている気がする。

電車に飛び込む以外の時間の使い方を知ることが重要なのかもしれない。

コロナウィルスの影響で子供が増えたら面白いと思う今日この頃、なんとなく書いてみた。

ではでは

言葉の意味を私たちはわかっていない。

最近よく考えることの一つに言語の問題がある。

簡単に言えば言葉の意味を僕たちは良く考えていないということだ。

文章を読む。

確かにこの文章をあなたは読んでいる。

しかし、どういう意味かあなたは本当にわかっているのだろうか。

意味といわれても、書いている通りの意味しかないと考える人が多いと思う。

それでは、この文章を読んでなにかしらのイメージを持っただろうか?

例えば、犬と言われれば、私たちは何かしらの犬をイメージできる。

それはゴールデンレトリバーかもしれないし、シェパードかもしれない、はたまたチワワかもしれない。

名前がわからない犬を思い浮かべる人もいる。

犬がわからない人もいるかもしれない。

物や生物の名称は基本的にある程度共通したイメージを私たちにもたらす。

では文章はどうだろうか?

本を読むときに、すべての文章をイメージに変換することは不可能である。

あなたは“説明する”という言葉をイメージできるだろうか?

ここで間違ってはいけないのは、黒板や教師など実際に説明している風景をイメージしたことで、“説明する”という言葉をイメージした気になってはいけないということだ。

私たちが思っているほど、私たちは言葉についてよく理解できていない。

なぜ、理解していなくても実際に人と話せるのかというと、共有しているからである。

例えば、”天気がいい”という言葉は、空が晴れているということを指すとみんながしっている。だから伝わるのだ。

逆に言うと”天気がググっている”という言葉は、何をさすのかわからない人が多いと思われる。(少なくとも私はわからない)

行動を示す言葉には、名称がついている。共通する具体例(具体的なイメージ)もついてくる。

犬にお手を教えるのと同じである。

では、概念はどうだろうか?

”命”という概念には、名称がついている。しかし共通する具体例はついてこない。

(共通しないイメージはついてくる)

ある人にとっては、命にろうそくのイメージを持っているかもしれない。

ある人にとっては、命に時計のイメージを持っているかもしれない。

ある人にとっては、命に銀河のイメージを持っているかもしれない。

少なくとも、誰もがこれって”命”と呼ぶものは存在しない。

それでは、私たちは”命”という概念について話すことはできないのだろうか?

これは知ってのとおり、話すことはできる。

文章を書くこともできる。

「命は尊い」という言葉も存在する。

なぜか

それは私たちが分からないを分からないままにしておけるからである。

”神”はいるか?

分からない。

”神”がいると証明できるか?

分からない。

”神”の存在について話すことができるか?

できる。

”神”の存在について文章を書くことができるか?

できる。

別にこれは”神”という概念に限ったことではない。

”教育”、”知らない大勢の人”、”夢”、”世界”

私たちは概念といわれるものについて深く考えずとも、コミュニケーションをとることができる。

説明するということを説明することは難しい。

しかし、何かを説明することはできる。と思っている。

本を読むとき、文章を分かっているか?と言われれば、分かっていると断言するのは難しい。

そもそも”分かる”という意味をよく分かっていないのだから。

っとまあ、最近気になったことを久しぶりに文章という形で書いてみた。

ではでは

進撃の巨人で学ぶ敵という存在

進撃の巨人という作品を読んでいて思った、敵という存在について書こうと思う。

 

ここで書きたいことは、情報統制と思い込みにらよって、争いは起こってしまうということだ。

 

作品を読んでいればわかると思うが、読んでいない人もいると思うので、勝手に日本を舞台にして説明してみる。

 

日本人は魚人(結構強い)になる能力を持っていて、中国で捕虜になっていた日本人が魚人にされ(この時点で意識がなくなる)日本に向かって放たれている。

←国に関して特別な意味はない、わかりやすさに重きを置いている。

 

日本にいる日本人は魚人になる能力が自分にあることが分からず、海から攻めてくる魚人を侵略者と見て敵対している。

さらに中国という存在を知らない。

 

中国は日本人の魚人になる能力が怖くて日本を攻めている。しかし、日本にいる日本人はそんな気はない。

←世界には自分たちしかいないと思っている。

日本は魚人が怖くて敵対している。しかし、本当の敵は中国である。

 

みたいな感じである。

違う部分もあるかもしれないが、それは気にしないことにする。

 

進撃の巨人を見て思ったのは、

これ、戦わなくて良くね?

ってことである。

←決して作品の批判ではない。

 

このことはTwitterなどのSNSでも見ることができる。

限られた文字数(制限された情報)とそれに対する意見(一種の思い込み)、それに同調圧力のようなものとおふざけが相まって、どーでもいい争いが起こっているように思える。

 

もちろん、様々な意見があることは問題ではなく、それによって議論が起こるのは必要なことであり、面白いことでもあるが、誰かを誹謗中傷することではないと思える。

傷つけるのは意見であって、相手そのものではないということだ。

 

久しぶりに何となく書いてみました。ではでは

高級品について

高級品とは不要なもの、高税のもの、専門性が高いもの、希少なもの、4つに分けられると思う。思いつきなのでまだあるかもしれないが、、、

 

本来不要なもの購入するのはお金が余っている人がほとんどである。

高級ブランドを例にとるのがわかりやすいかもしれない。

お金が余っている人は不用意に高くても問題がない。お金が余っているからである。

 

高税なもので分かりやすいのは外車であろう。最近話題のトランプ大統領も日本車に高い関税をかけようとしていた。←詳しくは知りません

煙草だって高級品だと思っている。煙草の税負担率は約60%である。

これは明らかに割高である。

 

専門性が高いものは、専門書がわかりやすい。一冊数万円などざらである。

これは、需要と供給を考えればわかる。

需要が少ないので単価を上げるしかない。当然である。

 

希少なものは宝石などがわかりやすい。これも需要と供給である。

需要に対し供給が少ないため単価を上げて需要を調整している。

 

こう考えると、希少なものと専門性が高いものは似ているのかもしれない。

同じような内容で説明できるからだ。

 

これらを理解すれば、私たちも新たに高級なものを作れるということである。

 

金持ちが好きそうなもの、専門性が高いもの、希少だと思われているもの。

これらを考えそれが市場にあまり出ていなかったらそれは高級品になるかもしれない。

ではでは

 

 

 

価値の変動

    単位の細かい価値が増えていると思う。

 

    広告を貼り付ける対象も個人のものが増え(youtuberが代表的)、昔よりも個人が個人としてピックアップされている。会社ありきではないということだ。

 

    私が思う原因の一つは、個人を表現するメディアの増加である。

    以前は、その人について書かれた本やニュースなどが個人を知る主な情報源であったが、現在はTwitterを中心に、より個人の像を捉えやすくするためのメディアが数多くある。

    他の人ととの境界線がはっきりするにつれて、価値も見出しやすくなる。

 

    小説の「何者」にもあるように、他の人との境界線を生み出すのが就活である。しかし、就活ではいろいろな方法でソートされたり、境界線をはっきりさせるには情報が少なすぎるのが問題である。

 

    このブログもそうであるが、なにかを発信するということは自分の分身を作っていることであると捉えている。前述のように書くと、自分の境界線をはっきりさせる行為ということだ。

    自分の分身(自分自身)に価値があるかどうかは分からないが(選択の科学(本)によると誰しもが自分自身を特別だと思っているとある)、発信しようと行動することに意味はあると思われる。

ではでは

産んでくれたことに感謝という言葉への疑問

たまに「親に産んでもらった方を感謝しなさい」という言葉を見聞きするが、この言葉に私は疑問を持っている。

 

そもそも、感謝の対象となるのはそれが起きない場合が起こり得ることだからだ。

 

例えば、仕事を手伝ってくれるという感謝の対象には、手伝ってくれない場合というのも起こり得る。

 

つまり、感謝は相対的に自分にとって都合のいい事が起こった時に使う言葉である。

 

ここで本題に戻すと、産んでくれたことという感謝の対象には、産んでくれなかったという事象が存在しない。

なぜなら、産まれなかった時点で産んでくれた事象が存在しないからである。

 

つまり、産んでくれたという事象は本人にとって絶対的であるということである。

 

結論

「親に産んでもらった方を感謝しなさい」

という言葉は間違っている。

ではでは