開けきれない箱

現役メンサ会員が様々な物事に関しての意見・考察を書きます。

高級品について

高級品とは不要なもの、高税のもの、専門性が高いもの、希少なもの、4つに分けられると思う。思いつきなのでまだあるかもしれないが、、、

 

本来不要なもの購入するのはお金が余っている人がほとんどである。

高級ブランドを例にとるのがわかりやすいかもしれない。

お金が余っている人は不用意に高くても問題がない。お金が余っているからである。

 

高税なもので分かりやすいのは外車であろう。最近話題のトランプ大統領も日本車に高い関税をかけようとしていた。←詳しくは知りません

煙草だって高級品だと思っている。煙草の税負担率は約60%である。

これは明らかに割高である。

 

専門性が高いものは、専門書がわかりやすい。一冊数万円などざらである。

これは、需要と供給を考えればわかる。

需要が少ないので単価を上げるしかない。当然である。

 

希少なものは宝石などがわかりやすい。これも需要と供給である。

需要に対し供給が少ないため単価を上げて需要を調整している。

 

こう考えると、希少なものと専門性が高いものは似ているのかもしれない。

同じような内容で説明できるからだ。

 

これらを理解すれば、私たちも新たに高級なものを作れるということである。

 

金持ちが好きそうなもの、専門性が高いもの、希少だと思われているもの。

これらを考えそれが市場にあまり出ていなかったらそれは高級品になるかもしれない。

ではでは

 

 

 

価値の変動

    単位の細かい価値が増えていると思う。

 

    広告を貼り付ける対象も個人のものが増え(youtuberが代表的)、昔よりも個人が個人としてピックアップされている。会社ありきではないということだ。

 

    私が思う原因の一つは、個人を表現するメディアの増加である。

    以前は、その人について書かれた本やニュースなどが個人を知る主な情報源であったが、現在はTwitterを中心に、より個人の像を捉えやすくするためのメディアが数多くある。

    他の人ととの境界線がはっきりするにつれて、価値も見出しやすくなる。

 

    小説の「何者」にもあるように、他の人との境界線を生み出すのが就活である。しかし、就活ではいろいろな方法でソートされたり、境界線をはっきりさせるには情報が少なすぎるのが問題である。

 

    このブログもそうであるが、なにかを発信するということは自分の分身を作っていることであると捉えている。前述のように書くと、自分の境界線をはっきりさせる行為ということだ。

    自分の分身(自分自身)に価値があるかどうかは分からないが(選択の科学(本)によると誰しもが自分自身を特別だと思っているとある)、発信しようと行動することに意味はあると思われる。

ではでは

産んでくれたことに感謝という言葉への疑問

たまに「親に産んでもらった方を感謝しなさい」という言葉を見聞きするが、この言葉に私は疑問を持っている。

 

そもそも、感謝の対象となるのはそれが起きない場合が起こり得ることだからだ。

 

例えば、仕事を手伝ってくれるという感謝の対象には、手伝ってくれない場合というのも起こり得る。

 

つまり、感謝は相対的に自分にとって都合のいい事が起こった時に使う言葉である。

 

ここで本題に戻すと、産んでくれたことという感謝の対象には、産んでくれなかったという事象が存在しない。

なぜなら、産まれなかった時点で産んでくれた事象が存在しないからである。

 

つまり、産んでくれたという事象は本人にとって絶対的であるということである。

 

結論

「親に産んでもらった方を感謝しなさい」

という言葉は間違っている。

ではでは

 

ペンチメントについて

 芸術の秋だからか、最近Twitterなどで「ペンチメント」という言葉をよく見る。ペンチメントとは元々は後悔という意味で、現在は芸術家が自分が書いた絵に納得せず、すでに描いた絵の上から新たに絵を描くことを示す言葉である。

 どんな絵が元々描いてあったのかは本人にしか分からないが、時間がたつにつれて絵が劣化し下の絵が見えてしまうことがある。そのとき、書いた本人にとっては過去の後悔(駄作など)を目の前に見せつけられる形になるのだ。

 

 このことを模してTwitterでは、自分にしか分からなかった過去の自分の恥ずかしい行動や後悔などをTweetしているようだ。

 このペンチメントをわざわざ公の場で行うのは意味が分からないが(後悔を再び味わえるのは本人だけであり、それを他人に見せつける行動は露出狂のそれとと違いが分からない)、過去の後悔(失敗)を振り返ることには意味があると思う。

 

 これは厳密にはペンチメントではないが、私個人も自分が書いた過去の文章(古いものだと一年ほど前)を見返すと、そのときは悪いと思わなかったものでも恥ずかしい文章と思えるものがある。

 有名な思考実験のテセウスの船にもあるように、私たちは数年の自分とは全く異なると考えることもが出来る。過去を振り返ることでその違いを知ることが出来る。その差を成長ととらえる人もいれば退化とらえる人もいると思うが、そのどちらも自分自身そのものであり、人生の過程でもある。

 では過去を振り返るのに必要なのは何かというと、それはアウトプットのデータである。生涯何も残さなかった、残されなかった人の存在は記憶の中にしかいなく、それはいずれ消えていく。私たちが歴史について調べる際に過去を振り返れるのは、文献や絵などが残っているからである。記憶の中の人の死は単なる数字でしか無く(死に方によっては数字にすら残らない)、その数字に意味を見いだすことは出来ない。

 

 少し脱線したが、ペンチメントについて少し考えてみた。ではでは

理由は後から付いてくる

    これは認知不協和や行動に関する話題だ。認知不協和を簡単にいえば、考えと行動に矛盾が生じたとき行動に無理やり理由をつけてしまうことを指す。

    例えば、好きでもない相手と関係を持ってしまった後で、私は実は相手のことが好きなのかもしれないと思ってしまうことである。

    行動の理由は行動した後についてくるということだ。

    これはやる気を出すことにもにも使える。重要なことはまず行動すること。それにはif then ルールなど、行動までの道のりをルーティン化することが利用できる。とりあえず5分だけ手をつけてみると脳が「作業興奮」という状態になって自然とやる気が出てくるのだ。

ではでは

参考⬇︎

https://yuchrszk.blogspot.com/2013/12/due.html

https://yuchrszk.blogspot.com/2015/10/blog-post.html

ハリネズミのジレンマと魚の群れの法則

    ハリネズミのジレンマという話を知っているだらうか。ハリネズミ達は愛し合おうと近づくと自分の針で相手を傷つけてしまい、離れていると寂しいと感じてしまうというものだ。

    私がこの話を聞いた時、魚の群れの法則を思い出した。

魚の群れには3つの法則がある。

1.近くの魚と近づきすぎない

2.近くの魚と離れすぎない

3.近くの魚と進む向きを合わせる

    これは人でも言えると思える。なにも考えなくていい、楽な距離感である。

周りの人の意見に同調し、だからといって反対意見の矢面に立つこともない。漫画でいうとモブキャラと表現される立ち位置だ。はっきりとした自分のポジションを取らないとも言える。

落合陽一的にいうと角砂糖、つまり水槽の中の魚の群れを見た時に誰がリーダーか分からないように、個人が識別できない。

    ここまで表現すれば分かるように、ちょうどいい立ち位置というのもいいことだけでもない。近づきすぎても面白いし、遠すぎても面白いかもしれない。

    知った上でどう行動するかは個人の自由だが、知らないよりは知っておいた方がいいと思う。ではでは

物語を溜め込む理由(小説や映画など)

   世の中には小説や映画など多くの物語が出回っており、人々はその物語を手に入れるためにお金を払っている。かくいう私もその一人だ。

   どうして自分とは関係のない物語(自分と関係のある物語は人生と呼ぶ)についてお金を払うのか。私の考えは"死にたくない"という思いがその根底にはあるからだと思う。

   多くの物語を自分の中に取り入れることによって、自分の寿命が延びていると錯覚しているのではないかという考えだ。

猫に九生有り←例えとしては不適切かも   という言葉もあるが、物語の中では多くの人が生まれ、多くの人がその人生に終わりを迎える。それらを疑似体験(ここでは小説を読んだり映画を見ることを指す)することによって、"なんの物語を知らない人より何倍も人生を体験している"という風に感じるということだ。

   そんなことを昔から思ったことがあったのだが、これも一つの考え方だと思う。ではでは

 

 

 

 

 

 

 

死にたくない→他の人の人生をより歩む